飯島企画業務日誌

『マツダ映画社』

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おはようございます☺️
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『マツダ映画社』足立区東和3丁目18−4
嵐寛、阪妻、千恵蔵……このチャンバラ映画の銀幕スターよりも人気があったのが、「弁士」だったことをご存知でしょうか?映画が「活動写真」と呼ばれていた時代、音や声のない画像だけの無声映画に、独自の語りで映画を引き立てる。それが「活弁」こと「活動弁士」でした。
「明治から大正、昭和初期までが無声映画の時代だったので、いまのお年寄りでも無声映画を見たという人が少ないんですよ。そのあとがトーキー映画ですから……。トーキーと言ってもピンと来る人も少なくなりましたね」と笑うのは、株式会社「マツダ映画社」の3代目・松戸誠さん、59歳。
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松戸さんの祖父「松田春翠(しゅんすい)」は、浅草で活躍した弁士でした。お客さんは映画よりも弁士を選んで映画館に来る時代だったそうです。当時の弁士は流行の髪型、最新の洋服を身にまとい、若くてかっこいい、いまで言うアイドル的存在でした。
「うちの祖父が仕事を終えて映画館を出ると、芸者衆が人力車に乗ってずらっと待っていたそうですよ」
弁士は映画館に所属し、他の映画館から引き抜きもあって、時の総理大臣よりも給料が高かったとか。その初代・春翠を継いだのが松戸さんの父親で、少年弁士として6歳でデビューします。しかし、無声映画の時代は「トーキー映画」の登場で終焉を迎え、7000人もいたという弁士は、俳優や司会、漫談家などに……。
2代目「松田春翠(しゅんすい)」さんは戦争に駆り出され、芸能班に所属し、芝居や語りで戦地を慰問して回りました。その仲間に九州出身の浪曲師がいて、戦争が終わったある日、「弁士をやってくれないか」と頼まれます。九州にはまだまだ娯楽が少なく、無声映画でも客が入るということで一座を組み、九州各地を旅巡業で回ることになりました。無声映画は何と言ってもチャンバラ映画が人気で、2代目春翠さんの語りに、観客から拍手喝さいが沸き起こります。ところが名場面なのに、フィルムが次のシーンに飛びます。あとで興行主に「なぜ、あの名場面がないんだ」と文句を言うと、「フィルムが痛んでいる」とか、「映写機にフィルムが引っかかるので、そのシーンを切って捨てちゃった」とか、まともな無声映画がほとんどないことを知るんですね。当時は「文化遺産」といった意識がなく、映画フィルムは消耗品。さらに空襲で焼けて、現存する無声映画は5%もないそうです。
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「父は無声映画をなくしてはいけないと、昭和27年に『マツダ映画社』を設立し、不完全な作品も含めて1000作品を収集。弁士を育て、上映会を続けて来ました。そんな父も昭和62年、62歳でこの世を去り、27歳だった私が会社を継ぐことになったんです」
無声映画を知らない世代の3代目、松戸誠さん。会社を続けて行くべきか迷った時期もありました。それでも無声映画を上映すると、興味のなさそうな高校生から「面白かった!」と喜ばれ、そんな声に励まされて、ここまで続けることができたそうです。
「いまも弁士と楽団が一組となって、鑑賞会を定期的に開いています。初めて無声映画を見た人は、ライブ感覚の新しさに感動し、『もっと観たい』とファンになってくれるんですよ」
「映画にまだ音がなかった時代、映画館は活動弁士の声、楽士の演奏する音楽、観客の歓声、かけ声、野次、そして涙と笑いに溢れていた。当時の映画館は、ライブパフォーマンス会場だったのです。」
「雄呂血」(おろち)をはじめ、無声映画の名作が見られる『無声映画祭』が、11月19日から毎週火曜日、午前10時30分より渋谷TOEIで開催されます。マツダ映画社主催の『無声映画鑑賞会』も定期的に開かれています。
詳しい日程は、マツダ映画社のホームページでご確認ください。
マツダ映画社http://www.matsudafilm.com
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