『日記から虚心坦懐』日ハム栗山英樹監督 後編
就任3年目の14年シーズンを迎えるにあたって、私は自己改革の必要性を痛感していました。13年のシーズン終了後からすぐに手を付けられるものとして、自宅の本棚に眼を向けてみました。
学生時代から、本には親しんできました。ファイターズの監督になってからは、リーダー論や組織論などのビジネス書にヒントを求めることが多かった気がします。経営者や企業家の言葉を引用したそれらの本を読んでいくうちに、成功を収めたと言われる人たちの共通点に気づきました。
古典に当たっているのです。『四書五経』、『論語』、『易経』、『韓非子』といったものの教えが、時代を越えて模範的で普遍的な価値を持つことに気づきました。
テレビも、携帯電話も、インターネットもない何千年も前に書かれたものが、現代に生きる私たちの指針となる。これを驚きと言わずして、何と表現したらいいでしょう!
『論語』に「君子は諸れを己に求め、小人は諸れを人に求む」というものがあります。
人の役に立つような行ないをする人は、成すべきことの責任は自分にあると考える。一方、自分本位の考えを持つ人は、責任を他人に押し付ける、といった解釈が当てはまるでしょうか。
敗戦を選手に押し付けない。ミスを選手の責任にしない。監督就任から行動規範としてきたことですが、この『論語』の言葉を読み返したときに、自分への疑問が湧き起こりました。
お前は本当に選手を信じているのか? 選手に勝利の喜びを味わってもらいたいのか? 13年シーズンの自分は、知らず知らずのうちに責任を誰かに押し付けていたのではないだろうか。
気になった言葉は、ノートに漏れなく書き出していきました。書き出して、読み返して、また書き出して、また読み返す。
ファイターズの本拠地・札幌ドームの監督室で、遠征先のホテルで、時間を忘れてノートと向き合っているうちに、私が味わっている苦しみは本当に小さなものでしかなく、そもそも苦しみと言うのも憚られるようなものなのだ、という気持ちになっていきました。先人の言葉が水や肥料となって、乾きがちだった心が潤っていったのです。
日本の資本主義の父と呼ばれる渋沢栄一さんは、「すべて形式に流れると、精神が乏しくなる。何でも日々新たにという心掛けが大事である」と説きます。過去の成功例はもちろん参考にするべきなのでしょうが、「去年までがこうだったから、今年も同じやりかたにしよう」と無条件に決めるのではなく、違った角度からアプローチすることも大事だよ、ということでしょう。
渋沢さんの著書『論語と算盤』は、擦り切れるぐらいに読み込んできました。そして、ページを開くたびに「そうか!」と膝を打ちます。その時々の精神状態によって、受け止め方が変わってくるのでしょう。そしてまた、私は渋沢さんの言葉をノートに書き写します。気になった言葉は何度でも書く。血液に溶け込むぐらいに、細胞に組み込まれるぐらいに、書いて、書いていきます。
シーズン中のプロ野球は、基本的に週に6日試合があり、試合がない日は移動日に充てられます。ファイターズを率いる私は、試合中に頭をフル回転させます。刻々と戦況が変わっていくなかで、次の一手を絶えず考えていく。
想定どおりに進む試合は、実はほとんどありません。采配がズバズバと当たった、という試合も例外的です。試合内容と試合展開に心から満足できる勝利は、1シーズンに数試合あるかどうか……というぐらいです。
つねに想定外を予想し、瞬間的に判断を下していく攻防が終わると、全身に張り付くような疲労が襲ってきます。負けた試合のあとになれば、選手たちの頑張りを勝利に結びつけられなかった悔しさと歯がゆさと、自分への腹立たしさが身体中に突き刺さります。
すぐにはノートを取り出す気持ちになれません。しかし、試合が終わったばかりの生々しい感情は、偽りのない心の叫びです。まとまりに欠ける文章でも、言いたいことはストレートに浮かび上がってくる。だから、できるだけ早く書いたほうがいいと、経験として分かってきました。自分の気持ちをすべて書き出せなかったら、少し時間をおいて書き足せばいいのです。
机に座って、ノートを開く。身体にこもった熱を息に溶かしながら、ゆっくりと吐き出していく。感情的だった思考が理性的になり、少しずつペンが動いていきます。
誰かに読ませるためではないので、乱暴に書き殴っている日もあります。1行目には日付とその日の試合結果を書いているのですが、負けた試合後は文字が乱れがちになっている。そもそも字がきれいではないけれど、読み返すのが難しいこともあります。
それにしても私は、なぜノートを書くのか。
『論語』に「性は相近し、習えば相遠し」との教えがあります。人の性質は生まれたときにはあまり差はないけれど、その後の習慣や教育によって次第に差が大きくなる、という意味です。学びには終わりはなく、学び続けなければ成長はありません。成長とは自分が気持ちよく過ごすため、物欲や支配欲を満たすためなどでなく、自分の周りの人たちの笑顔を少しでも増やせるようにすることだと思うのです。
その日の試合や人との触れ合いから何を感じ、どんな行動を取ったのか。それは、私たちの道しるべとなる先人たちの言葉に沿うものなのか。1日だけでなく2日、3日、10日と反省を積み重ねることで、自分を成長させていきたい。
私は弱い人間です。子どものころは次男坊のわがまま少年で、野球を始めたのは「我慢を覚えさせるためだった」と父に言われました。
大人になったいまも、「今日はこれができなかったから、明日はこうしよう」と心に留めておくだけでは実行に移せません。忙しいとか時間がないといったことを言い訳にして、つい自分を甘やかしてしまう。そうならないために、ノートに書いて一日を振り返り、読み返してまた反省をするようにしています。
ノートに自分の思いを書く行為は、周りの人たちとどのように接したのかを客観視することになります。
私たち人間は、ひとりでは生きていけません。普段の生活でも仕事でも、家族や友人、先輩や同僚、名前は知らないけれど隣に住んでいる人、などと交わりながら生きていく。一日を振り返ることは他者との関わりかたに思いを馳せる時間であり、他人の良さを認めること、自分の至らなさに気づくことにつながります。人の話をわだかまりなく聞く「虚心坦懐」の心構えを、再確認することにもなっています。
*きょしん-たんかい(心になんのわだかまりもなく、気持ちがさっぱりしていること。平静に事に望むこと。また、そうしたさま)
中国古代の歴史書『書経』に「時なるかな、失うべからず」という言葉があります。チャンスを逃すなということですが、ノートに書くことは自分の行動を見つめ直し、課題を抽出することに結びついていきます。つまりは、来たるべき「時」に備えて準備を進めていると理解できます。
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