『日記から虚心坦懐』日ハム栗山英樹監督 前編
おはようございます😉
『日記から虚心坦懐』日ハム栗山英樹監督 前編
もう何年になるのだろうか。ある習慣があります。野球ノートをつけているのです。
私は小学校1年から野球を始めました。3歳年上の兄が所属していて、父が監督を務めるチームの一員となりました。
小学校当時はその日の練習メニューを書き出したり、気になったプレーを図解したりしていました。うまくできたプレー、ミスをしてしまったプレーを整理する意味合いを持たせていたのだろうと思います。
中学から高校、高校から大学と野球を続けていくなかで、ノートと向き合う気持ちは変わっていきます。自分のプレーを見つめる視点に、チームが勝つためにはどうすればいいのか、という考えが織り込まれていきました。
テスト生でヤクルトスワローズに入団してからも、チーム第一の気持ちは芯を持っていきます。自分はドラフトで指名され、即戦力として期待されている選手ではない。プロ野球という世界に存在するヒエラルキーで、もっとも低い立場でした。だからこそ、チームの勝利に貢献できる自分になることを、強く意識する必要がありました。
練習後や試合後にノートを開くことは習慣化されていましたが、ときには書かない日もありました。書けなかった、と言ったほうがいいかもしれません。
監督の狙いどおりにプレーできなかった。チャンスで凡退してしまった。失点につながるミスをしてしまった。押し寄せる悔しさを処理できず、自分のプレーを整理できず、ペンを持てない日がありました。
2012年に北海道日本ハムファイターズの監督に就任してからは、シーズン前のキャンプから必ずノートを開くようにしています。その日のスケジュールがすべて終わった夜に、自室でペンをとります。日記をつけるような感覚です。
練習でも試合でも、実に様々なことが起こります。私自身が気づくこと、選手やスタッフに気づかされることは本当に多い。つまりは書くべきことは多い。
ところが、ノートを開いてもすぐには手が動かず、白いページをずっと見つめたり、部屋の天井を見上げたりすることがあります。
監督としての自分に、言いようのない物足りなさを感じているのです。チームを勝たせることができていない。勝たせることができたとしても、選手たちに必要以上に苦労をさせてしまっている。
反省点は数多くありますから、とにかく書き出していきます。書き出すことで頭が整理されるものの、理想と現実の狭間で揺れる気持ちはなおも落ち着かず、気が付けば窓の外が明るんでくることもあります。
私は2012年に北海道日本ハムファイターズの監督としてスタートを切りました。
当時チーム統轄本部長だった吉村浩ゼネラルマネージャー(GM)からオファーを受けたときには、言葉を喉に詰まらせてしまいました。
29歳でプロ野球選手を引退した私は、それまで野球ひと筋と言っていい人生を過ごしてきました。引退後にどんな仕事を選ぶとしても、社会人としての知識量は明らかに乏しい。人間として一人前になるためには学びの時間が欠かせないと考え、スポーツキャスターとしてメディアの世界に飛び込んでいきました。
伝える側から野球を見つめると、様々な気づきがありました。
監督について言えば、名将や智将と呼ばれる方々は経験から多くを学んでいるという共通点がありました。選手としての実績、監督としての成績が選手たちの心を惹きつけ、カリスマ性と言うべき存在感につながっていることも肌で感じることができました。
それに対して私は、誰の眼にも分かりやすい成果を残していません。
ヤクルトスワローズに在籍した1984年から90年までの7年間で、チームはリーグ優勝を果たせませんでした。本塁打王、最多勝、新人王などの個人タイトルを獲得する選手がいるなかで、私自身はゴールデングラブ賞を1度獲得しただけで終わっています。プロ野球選手としての日々を履歴書にまとめるなら、自己アピール欄に書き込めるものはほとんど見つけることができません。
そんな私が、監督に? すぐに返答できるはずがありませんでした。言葉は出ないまでも、頭のなかでは断りのフレーズが列をなしていきます。
沈黙を破れない私に、吉村GMが言いました。「栗山さん、命がけで野球を愛してやってくれれば、それでいいのです」
天祐というものに恵まれることがあるならば、まさにいまこの瞬間ではないだろうか。それまで暗闇に立ち尽くしていた私は、頭のなかに明かりが灯ったような気がしました。
野球人としての私の経歴が足りないものばかりなのは、吉村GMも、彼以外の球団職員も、間違いなく分かっている。それでもファイターズがチャンスをくれたのは、私が野球に注いできた情熱を、もしかしたら評価してくれたのだろうか。
野球を愛する気持ちは、私の身体を太く貫いている。野球への愛こそがファイターズの監督に求められる最優先事項なら、ひるまずに飛び込んでいっていいのではないだろうか、と考えたのです。
成績だけを見れば、就任1年目は成功と言えるかもしれません。パシフィック・リーグを1位でフィニッシュし、リーグ上位のチームによるクライマックスシリーズも制して、読売ジャイアンツとの日本シリーズに臨んだのです。残念ながら日本一になることはできませんでしたが、新人監督が最低限の責任を果たしたことで、周囲は安堵したかもしれません。
しかし、私自身は自己嫌悪に苛まれていました。
勝った試合は選手たちの頑張りがあったからで、負けた試合は私の力不足だったからです。誰の眼にも明らかな采配ミスこそなかったものの、専門家なら「経験不足だ」と一蹴されてしまう場面は何度もあったのです。
果たして、翌13年シーズンは最下位に沈んでしまいます。
前シーズンまでの主力選手が移籍した、中心選手がケガをしてしまった、などの理由はありました。しかし、1位だったチームが6位になってしまうのは、もっと根本的な問題があったはずです。それはつまり、私の力量不足に他なりません。
過信も慢心もなかった。試合にはつねに全力で臨んだ。自分では全力を注いでいたつもりでしたが、野球は相対的なスポーツです。ファイターズが最下位に終わったということは、パ・リーグの6チームの監督のなかで6番目の努力しかできていなかった、と考えるべきです。私が考えた勝利へのシナリオは、穴だらけだったのでしょう。
記事画像https://president.jp/articles/-/32144?page=1 2 3
後日、後編に続きます。