『パワハラとの人間関係』前編
2019年は組織のパワハラやセクハラに関する不祥事が相次いだ。ジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳氏は「お釈迦さまも、パワハラをする弟子に頭を悩ませていた。そうした人間に対処するには、パワハラやセクハラの原因が、自分に自信の持てない者の嫉妬に由来することを知るべきだろう」という――。
こうした問題にどう向き合えばいいのか。今回はお釈迦さまの言葉をもとにして、パワハラ・セクハラの解決法を紹介していきたいと思う。
パワハラ・セクハラが横行する企業は、労働者本位の健全な組織とは言えない。いわばブラック企業だ。そうした企業では社内全体の人間関係もギスギスしていく。いずれ組織全体が傾くのも時間の問題だろう。
何事も円滑にいかないことを、家屋の建具の不具合になぞらえて「ガタピシ」と言うことがある。今では木の建具が少なくなっているので、ガタピシという言葉は死語に近いかもしれないが、昔はよく「ふすまが、ガタピシしてきた」などと言ったものだ。あなたの会社はガタピシしていないだろうか。
ガタガタ、ピシピシという擬音語から「ガタピシ」が生まれたと思う人は、多いだろう。しかし、実は仏教用語なのだ。漢字で書けば「我他彼此ガタヒシ」である。
これは、「我=自分」と「他=他人」、あるいは、「彼岸=悟りの世界」と「此岸=迷いの世界」との二項対立の構図を表したもの。
仏教はほんらい、無我(永遠不滅の実体があるものは存在しない=とらわれない)の悟りの境地を理想としているので、「私が」「あいつが」というような意識を持っている人は、悟りからは程遠い「迷い」の状態にあると言える。
このような人は、日頃の行動が独善的(自分にとらわれた状態)になり、他者への気配りができない。ひいては、パワハラやセクハラなどの問題行動を引き起こしてしまいかねない。多くの組織では、同僚たちと比較する形で、相対的な成果が問われる。なかには自己の評価を上げるために相手を攻撃し、陰で誹謗して相手を陥れる者は決して少なくない。客観的に見ればそれは「自己防衛」の裏返しだろう。しかし、攻撃されるほうはたまったものではない。
他者を傷つける行為は、お釈迦さまも嘆きのタネであったようで、お釈迦さまは、このようなことを言っている。
『愚かな人は他人に害を与えることを好む。
その言葉にはまごころや真面目さがない。
他人に与えることをしないで、奪うことをする。
そのような人は好んで他人の女を犯す』
『法句経』第26章 心を汚す煩悩の章 10――宮澤大三郎著
いまふうに言い換えれば、「パワハラをする人は自制が効かないのが特徴で、言葉遣いも荒く、人の成果をも自分の手柄のようにし、セクハラも犯す」ということか。あなたの会社に、このような暴力的でかつ、女性関係にもだらしない上司や同僚はいないだろうか?
また、お釈迦さまは、パワハラの気のある弟子をこのように諫いさめたことがあった。
お釈迦さまの弟子にアトゥラ信者という、相手を思いやれない者がいた。彼はある時、教えを授かりに、「禅定第一」と呼ばれたレーヴァタ長老のところに向かった。しかし、長老は静かに瞑想をするだけで、何も語ろうとしなかった。ムカッとした信者はこの長老を罵ののしり、去っていった。
次に信者が向かったのは、サーリプッタ長老のところだった。この長老は「智慧第一」と呼ばれ、お釈迦さまから最も信頼されていた人物だ。長老は信者に理解できないような難解な説法を始めた。すると、また彼は怒って去っていった。
次に信者が向かったのがアーナンダ長老のところ。長老は「多聞第一」と呼ばれ、お釈迦さまのとくに近くで仕えた人物で知られている。この長老は子供に理解させるように、やさしく説法をした。しかし、信者は「物足りない」と腹を立ててしまった。
そして、最後に向かったのがお釈迦さまのところだった。お釈迦さまは、諭したものの、最後は「愚かな者たちの非難や賞賛には際限がない」と嘆かれたという。
お釈迦さまの時代も、今も、組織の中での人間関係は似たようなものだったようだ。常に自分を正当化し、相手の非をなじるような者に、己の愚かさを気づかせ、改心させることは至難の業なのだ。
https://president.jp/articles/-/32128?page=1 2
後日、後編へ続きます 。