飯島企画業務日誌

『そば』

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おはようございます😉

 

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『そば』
うどん、そうめん、中華麺、洋麺と、麺類は日本人の主食の1つとなっているが、頭に「日本」が付くのは「そば」のみ。日本人の麺食文化において、そばの存在を欠かすことはできない。
そんなそばと日本人の関わり合いの歴史はどのようなものだったのだろうか。歴史を探ってみると、今から400年ほど前、日本のそばの食べ方における“大きな変革”があったことが分かる。

日本のそばも、元をたどれば大陸伝来の食べ物となる。植物のソバの原産地は、DNA分析などから現在では中国雲南省からヒマラヤあたりにかけてという説が有力になっている。

「蕎麦」が初めて、歴史的文献に上ったのは、797年に完成した史書『続日本紀』においてである。奈良時代前期の女帝だった元正天皇(680~748)が出した詔の中に「蕎麦」の記述がある。
日照り続きで稲の収穫が見込めない中、普通より遅く実る晩禾とよばれる稲や小麦とともに、栽培が推奨されたのが「蕎麦」だった。ソバは、日照りや冷涼な気候にも強く、また栽培する土地もさほど選ばないため、凶作の時も収穫が見込める救荒作物として位置づけられたのだ。

今、「そば」といえば、だれもが色の少しついた長細い麺の食べものを思い浮かべる。だが、少なくとも16世紀頃までは「そば」に麺としての形を見出すことはできない。そばの歴史の中で、そばは長いこと麺ではなかったのだ。
そば屋に入ると、そば粉を湯でこねて餅状にした「そばがき」や「そばもち」を食べることができる。このそば粉を練った食べ物こそ、そばの長い歴史の中では「そば」であり続けたのである。ということは、今やどこでも見られる麺の形をしたそばは“発明品”ということになる。麺状のそばには、包丁で切って作ることから「そば切り」という呼び方も付いているくらいだ。現代人の観点からしてそばがそばらしくなったのは、つまり、そば切りが誕生したのはいつ頃のことだろうか。

1992年には、長野県の郷土史家が、県南西部にある大桑村の定勝寺という寺で1574(天正2)年にしたためられた「定勝寺文書」の中で、「ソハキリ」(そば切り)の文字があるのを発表した。
これは、定勝寺の仏殿修理の落成祝いとして贈られた品物と贈答者の名前だ。徳利とそば袋を「千淡内」なる人物が贈った。そして、そば切りを「金永」なる人物が確かに振る舞っていたのである。
謎の部分もまだ多いが、そば切りは16世紀のいつ頃かに誕生したものと考えてよさそうだ。
そば切り、つまり麺としてのそばが世に出てからというもの、そばに様々な変革の手が加えられていった。江戸時代に入り、17世紀から18世紀頃には、そば粉に“つなぎ”としての小麦粉を混ぜるそばの製法が打ち立てられたとされている。

そば粉のみのそばは「十割」(とわり)、小麦粉2に対してそば粉8の比率のそばは「二八」(にはち)、同様に、「三七」「半々」も誕生した。さらに、そば粉10として小麦粉2の割合の「外二」なども誕生した。粉の混ぜ方が多種多様になったのは、それだけ人々がそばに興味を持つようになった証しと言えよう。
今も続く「そば屋」が開店したのも江戸時代だ。江戸の麻布永坂町では、江戸暮らしをしていた信州の行商人の清右衛門が1789(寛政元)年、「信州更科蕎麦処」なる看板を掲げた。「更科そば」は、ソバの実の中心のみを挽いた白い上品なもの。信州からの直売を売り物にし、江戸中で受けたという。
一方、雑司ヶ谷鬼子母神門前や本郷団子坂では「藪そば」が誕生した。こちらはソバの実の甘皮の色を入れた薄緑色のそばだ。

晦日(毎月の末の日)に食べる「晦日そば」や、大晦日に食べる「年越しそば」の習慣が庶民に定着したのは江戸時代中期と言われる。もともと、金銀細工師が、飛び散った金粉・銀粉を、そば粉を使って集めていたことから、縁起をかついで掛け金の回収前にそばを食べるようになったという。そのげんかつぎが晦日や大晦日にそばを食べるという習慣として広まったという説がある。
また、引っ越しの挨拶に「そばに参りました」の意味を込めてそばを贈る習慣も江戸時代に起きたとされる。
麺となったそばは江戸の人びとに愛され、縁起物になっていったのである。

記事https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/29463?page=4

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