『君がいないと小説は書けない』白石一文
おはようございます😉
図書倶楽部
『君がいないと小説は書けない』白石一文
勤めていた出版社の上司、同僚、小説家の父、担当編集者。これまで明かすことのなかった彼らとの日々を反芻すればするほど、自問する。書くために彼らと過ごしていたのか。妻や息子との関係もはっきりさせられず、結婚できない最愛の”ことり”との生活。悲しいほど実感がない”ことり”のすべてを、引き受ける。自伝的小説。対人関係を耐え忍ぶことによって得られるものは小さく、ウマの合う相手と笑いあって過ごす喜びは驚くほど大きい。そうやって豊かな人間関係を築く為に何より必要なのは、自分の持っている双眼鏡で、すぐにピントの合う人を見つけ出すことにある。
客観的に不安が無いどころか不安だらけの状況だが、万事休すとなれば死んでしまえばいいと思えば一切の不安は心にない。
”パニック障害”を発症した著者は、これを”自己の消滅”と言う人間の根源的な恐怖から生じてくる。発作を防ぐには、自分はいつ死んでも良いのだと自らに言い聞かせ、受け身ではなく、先手を打っての死は恐ろしくない。
死は誕生と同時に定まる現実でこの世界には時間など存在せず、ただ距離だけが存在すると言う認識は、生と死を一体のものとして捉えるとリアリティーを帯び、自分がいずれ確実に「自分の死」に向かって一歩一歩近ずき、距離を縮めていく。この事実から、この世界には時間はなく距離だけがあるだけ、と言う考え方。
人間は自ら生まれようと決心して生まれる。それを許さない宗教がなぜ自殺を戒めているのか?強大な神を据えて、その万能の神の前にひざまづく信者は、神の意志で生まれなければならず、生命の生死の権能は全て神の手中にある。
人間が自分の意志で生まれて、自分の意志で死ねるならば、神の存在が狭められてしまう。自殺とは神に逆らう行為なのだ。そうした個人の行為を厳しく禁じながら、神の名の下に”戦争”虐殺”死刑”を繰り返す。
何かを体験、経験するとき我々は時間軸に沿ってしまう。しかし、体験を時間軸から外し、体験自体が瞬間的現実より長く、広く体験と追体験が並列的になる時に過去の思い出が繋がるのだろう。
自分の事を最も理解しているのは自分自身とは限らない。他人から指摘される自分自身の癖や考え方は自分では気が付かない。私達は他人の心の中に”自分”と言う手紙を配っているのかも知れない。自分がどんな人間なのか、全然知らずに。
また自分の死後、手紙を受け取った人が亡くなった時に致命的な死とは言えないだろうか?
常に変化し、存在した者はやがて影も形も失われる。
”私”と言うのは「私という体験」で、双眼鏡を覗いて事象や他人との関わりを観察する事、その双眼鏡を私達は五感と呼び、直感、霊感、思考、洞察、記憶と呼ぶ。
私と言う1つの「視点」は私自身を観察しているのかもしれない。
どれ程ピントの合った相手でも、見ることを止めてしまってはその人の双眼鏡が一体どちらを向いているかさえ読み取れなくなってしまう。
歳を重ねると、昔を回想する議会が多くなる。それと共に、すっかり忘れていた事を不意に思い出す。記憶と言うのは”消える”のではなく”隠れる”のだ。
この日本社会で出世の階段を上がっている人々は、”無責任能力”と”共感欠如能力”を兼ね備えた人達だ。その人は能力が競争相手に比べて秀でているわけではない。多くのまともな競争相手が責任感や哀れみの感情に従って競争から降りただけの事に過ぎない。
すべての人間は自己中心的で、自己欺瞞で、愛したり、尽くしたりしているのかもしれない。「直感でわかってしまう」「不思議に頻発するシンクロニシティ」この年齢の作家だからこそ描ける人生哲学を味わえた。