『国友 一貫斎』くにとも いっかんさい
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『国友 一貫斎』くにとも いっかんさい永7年10月3日(1778年)- 天保11年12月3日(1840年)現在の滋賀県長浜市国友町の幕府の御用鉄砲鍛冶職の家に生まれた。9歳で父に代わって九代目”藤兵衛”と名乗り、17歳で鉄砲鍛冶の年寄脇の職を継いだ。文化8年(1811年)、彦根藩の御用掛となり二百目玉筒(大砲)を受注することとなったが、国友村の年寄4家は自分たちを差し置いてのこの扱いに異議を申し立て長い抗争に発展した(彦根事件)。しかし一貫斎の高い技術力が認められ、文政元年(1818年)に年寄側の”敗訴”となった。文政2年(1819年)、オランダから伝わった風砲(玩具の空気銃)を元に実用の威力を持つ強力な空気銃である「気砲」を製作。その解説書として「気砲記」を著し、後には20連発の早打気砲を完成させた。文政年間、江戸で反射望遠鏡を見る機会があり、天保3年(1832年)頃から反射式であるグレゴリー式望遠鏡を製作し始めた。口径60mmで60倍の倍率の望遠鏡は当時の日本で作られていたものよりも優れた性能であり、鏡の精度は2000年代に市販されている望遠鏡に匹敵するレベルで100年以上が経過した現代でも劣化が少ないという。後に天保の大飢饉等の天災で疲弊した住人のために大名家等に売却されたと言われ、現在は上田市立博物館(天保5年作、重要文化財)、彦根城博物館に残されている。その他、玉燈(照明器具)、御懐中筆(万年筆、毛筆ペン)、鋼弩、神鏡(魔鏡)など数々の物を作り出した発明家である。この他に人が翼を羽ばたかせて飛ぶ飛行機「阿鼻機流」を作ろうとしていた事もある。また、彼は自作の望遠鏡で天保6年(1835年)に太陽黒点観測を当時としてはかなり長期に亘って行い、他にも月や土星、一説にはその衛星のスケッチなども残しており、日本の天文学者のさきがけの一人でもある。