『傾奇者』
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『傾奇者』
(かぶきもの)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮。茶道や和歌を好む者を”数奇者”(芸道に執心な人物の俗称)と呼び、更に数奇に傾いた者と言う意味で「傾奇者」と呼ばれた。「傾(かぶ)く」という字は、現代では「傾(かたむ)く」と読みますが、これはもともと「頭を傾(かたむ)ける、傾(かし)げる」という意味を持つ言葉。ここから派生し「傾(かぶ)く=常軌を逸した発想で・並外れた・異端の行い」を表現する言葉とにった。
江戸や京都などの都市部で流行した。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと。なお、時代によっては「バサラ」(婆紗羅)となったり、”伊達政宗”由縁の「伊達男」とも称されたりする。
当時男性の着物は浅黄や紺など非常に地味な色合いが普通だった。しかし、かぶき者は色鮮やかな女物の着物をマントのように羽織ったり、袴に動物皮をつぎはうなど常識を無視して非常に派手な服装を好んだ。
多くは徒党を組んで行動し、飲食代を踏み倒したり因縁をふっかけて金品を奪ったり、家屋の障子を割り金品を強奪するなどの乱暴・狼藉をしばしば働いた。自分の武勇を公言することも多く、それが元でケンカや刃傷沙汰になることもあった。辻斬り、辻相撲、辻踊りなど往来での無法・逸脱行為も好んで行い、衆道や喫煙の風俗とも密接に関わっていた。こうした身なりや行動は、世間の常識や権力・秩序への反発・反骨の表現としての意味合いがあった。
彼らは、仲間同士の結束と信義を重んじ、命を惜しまない気概と生き方の美学を持っていた。
かぶき者になるのは、若党、中間、小者といった武家奉公人が多かった。彼らは武士身分ではなく、武家に雇われて、槍持ち、草履取りなどの雑用をこなす者たちで、その生活は貧しく不安定だった。彼らの多くは合戦の際には足軽や人足として働きつつ、機をみて略う奪行為に励み、自由で暴力的な生活を謳歌していたが、戦乱の時代が終わるとともにその居場所を狭められていった。
かぶき者たちは、一方で乱暴・狼藉を働く無法者として嫌われつつ、一方ではその男伊達な生き方が共感と賞賛を得てもいた。武家奉公人だけでなく、町人や武士である旗本や御家人がかぶき者になることもあった。また、1603年(慶長8年)に出雲阿国がかぶき者の風俗を取り入れたかぶき踊りを創めると、たちまち全国的な流行となり、のちの”歌舞伎”の原型となった。
かぶき者の文化は慶長期にその最盛期をみるも、同時にその頃から幕府や諸藩の取り締まりが厳しくなっていき、やがて姿を消していくが、その行動様式は侠客と呼ばれた無頼漢たちに、その美意識は”歌舞伎”という芸能の中に受け継がれていく。
傾奇者で名が知れているのは”前田慶次”ですが、意外なのは”徳川光國”(水戸黄門)です。
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