『秀吉木座像』
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『秀吉木座像』
豊臣秀吉とみられる江戸時代の木像(豊国大明神像(とよくにだいみょうじん)が、大阪市旭区の大宮神社で見つかった。市教委文化財保護課が21日発表した。等身大で、近現代の像をのぞけば、秀吉の木像の中で全国最大という。徳川の時代の秀吉信仰の様子がわかる発見として注目される。
ヒノキ材を使った寄せ木造りの座像で、高さ81・9センチ。市教委によると、全国に秀吉像は二十数体残るが、最大とされる西方寺(さいほうじ)(京都市左京区)の像(81センチ)を上回る。長い眉やひげ、三日月の形の目などが特徴で、正装の束帯(そくたい)姿だが、冠は失われ、彩色は意図的に落とされていた。
大宮神社は、大坂城の鬼門の方向(北東)を守る神社として秀吉の時代から信仰される。秀吉像があったのは境内にある摂社「高良社(こうらしゃ)」の社殿内。廣瀬哲宮司によると、扉は釘で封印され、存在は一部の神社関係者だけにしか伝わっていなかったといい、昨年、改修工事にともなう調査で確認された。
秀吉は死後、豊国大明神の神号を贈られ、神として京都の豊国(とよくに)神社など全国でまつられたが、徳川家康が豊臣家を滅ぼすと神社をこわした。江戸時代の兵法家の随筆には、家康は秀吉を神としてまつるのを禁じ、神像から束帯をとって丸坊主にすることを命じたとするエピソードも記されており、公に秀吉を信仰しづらくなった。だが、大坂など秀吉ゆかりの地での人気は高く、秀吉の一代記を記した18世紀末の「絵本太閤記」は大ベストセラーに。幕府は発禁処分にしたが、大坂や京都では浄瑠璃や歌舞伎になるなど、秀吉ブームも起きた。1823年に大宮神社が開帳された記録もあり、この時に秀吉像も公開されたらしい。
今回の秀吉像がいつ作られたか、はっきりしないが、神社には1615年の大坂夏の陣の時、天守から運び出されてきたとの伝承も残る。市教委は、開帳時に右手首が修理されたとみられることから、開帳の数十年前には作られており、17世紀中ごろまでさかのぼる可能性もある、とみる。
長谷洋一・関西大教授(日本彫刻史)は「神像は通常、威厳のある姿に作るが、これは好々爺(こうこうや)風であまりない形。公には秀吉像を作りづらかったので、専門の仏師ではなく、彫刻に手慣れた宮大工が作ったのでは。彩色が失われているのは、開帳前に秀吉像であることを隠すためだったのかもしれない」とみる。
大阪城天守閣の北川央(ひろし)館長は「大坂は江戸ほど幕府の目が光っていなかったので、大坂城ゆかりの神社に像があってもおかしくない。
大坂人の幕府に対する姿勢を考えるうえでも、重要な発見だ。ただ、他の像と姿がかなり違うので、本当に秀吉像なのかどうかは、慎重に考えた方がいい」と話す。
木像は、今年度中に公開される予定。
記事画像https://digital.asahi.com/sp/articles/photo/AS20200521001122.html(渡義人)