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図書倶楽部
『江戸川柳完全攻略読本』橋克宏
川柳と言う17音の庶民文芸は、江戸264年の丁度真ん中頃に誕生した。
川柳と言う庶民の文芸によって当時の彼らの暮らしぶりと生活習慣、人としての自負や考え方と言うものが今の時代にリアルに語り継がれ、残念な事に、その17音の中に残された彼らの粋な冗談を正しく理解する能力も時代と共に乏しくなるばかりだ。視覚的な情報は浮世絵からダイレクトに得る事は出来るが、言葉が残した情報とその背後に浮かぶ人肌の生活感と言うもの感じさせてくれる。
江戸時代の風習が現代にも名残を残している。
時を知らせる鐘の撞き方は、まず「捨鐘を3つ」撞いて人々の注意換気してから少し間を置いて、時の数だけ鐘を撞く。現代のNHKの時報の「ピッ・ピッ・ピッ・ポーン」もその名残。
現代でも、毎年今年の流行語と言うものが発表されるがこんな事は昔からあったらしい。「おちゃっぴい」とは遊里語の「お茶挽き女郎」、客がつかずに売れ残った女郎は「銭が稼げないならお茶でも挽いてな」と言われた。そしてお茶っ挽女郎のようによく喋る女の子を「おちゃっぴい」とも言った。
「もてる」「ふられる」も色里の客にたいして使われた。「もてる」と言うのは、遊女にすかれ手厚く優遇されること。”間が持つ”から来ている。「ふられる」は遊女が客を嫌がって邪険にし相手にしない”振る”と言った。他にも同じ意味で”照らす”と言った。
当時の夫婦別れはの手続きは「去り状」「離縁状」。これは三行半と言う定型が有る為”みくだりはん”と言われ、読み書きの出来ない無筆の亭主は大家に代筆して貰うか、それも億劫なら、古紙に縦棒を3本と半分書いただけの図案化したもので代用した。
相撲の話では、当時「角力」と書いて”すもう”と読んだ。「角界」と言うのはその名残、大名家は競って諸国の力自慢を家臣として召し抱えた。力士たちは大名家の代理戦争と言う意味も兼ね備えていた。「力士」の士は「武士」の士。大名の家来の士分であると言う事。ひいきの力士が勝つと客が羽織を投げる習慣があった、それを持ち主に返しに行くと引き換えに礼儀を渡す。御礼儀が懸賞金制度になってからは投げるものが無くなって、番狂わせがあると座布団を放り投げるように今日に至る。
生きると言うのは、男も女も恥ずかしい事ばかり。恥じを背負って人は生きて行く。その中で、腹を括って面白可笑しく生きていく術を、江戸時代の人達はちゃんと心得ていた。物事の本質を見抜き、暴いて笑い飛ばす事で、肩の力が抜けてひょうひょうと生きて行く事が出来る。そうした豊かな生き方のヒントを、江戸川柳は現代の我々に教えてくれている。