『異邦人』カミュ 訳.窪田啓作
おはようございます😉
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『異邦人』カミュ 訳.窪田啓作
母の死の翌日に海水浴に行き、女と関係を結び、映画を観て笑い転げ、友人の女出入り関係して人を殺害し、動機について「太陽のせい」と答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が増悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。通常の論理的な一貫性が失われている男ルムソーを主人公に、不条理の認識を極度に追求したカミュの代表作。
と、裏表紙に”あらすじ”がありますが、言ってしまえばその通りですが、言葉や文字の感情表現の奥深さは人によって想いが異なるでしょう。
今日と昨日と明日しか興味がない。欲望に正直で現在を生きている。嘘を嫌い、無駄なことはしない。衆人なんて曖昧な存在に具体的な「個」の存在が左右されるのはおかしな話だけど、それが社会なのか。私達の感情はいかに論理性をもとに形作られているか?道徳や正義とはこれらの集まりで、 論理性や相対性を除いたときに、心が動く瞬間は肉体的な五感でしか無いかもしれない。
愛や仲間、司祭の言う事のような存在すら怪しい概念を動機には行動しない、五感や欲、死などの確実に存在し、逃れられないものだけを認め、そこから幸福を引き出そうとしている。
常識や普通と言うものは偏見に過ぎない。≪次に、この本の読み方を解説しているサイトからご紹介致します≫
■この作品を読みこなすためにはカミュの思想や価値観を理解することが必要だと感じるので、そのあたりに注意しながら読んでいただけますと幸いです。
まず、この作品がタイトルにもあるような既存の「思想」を片っ端から否定していく小説であるということは頭に入れておくべきです。実際、カミュは無神論者としても著名で、キリスト教的な世界観を重んじる西洋社会においては相当な「異邦人」と見なされたことでしょう。ましてや、既存の「思想」、言い換えれば「権威」そのものに絶えず喧嘩を売り続けてきたわけですから、それは生きづらい生涯を送ったに違いありません。つまり、この本で描かれている内容は「太陽がまぶしかったから人を殺した青年の話」ではなく、「人を殺した理由を『太陽がまぶしかったから』と説明しなければならなかった青年の話」と言い換えられるわけです。
作中でも示されているように、主人公のムルソーはその考えを一切理解されることはありません。
彼は社会的な「慣習」を守らないために、裁判でさえ何も取り合われることなく人類の敵だと言わんばかりに糾弾されていきます。この描かれ方は、恐らくカミュが自身の目を通して見た「世間」そのものを比喩しているのでしょう。つまり、見方によっては『異邦人』という小説が私小説的な色彩を帯びているともいえるわけです。端的に言ってしまえば、この作品は「理解されないという名の不条理」を描いたものと個人的に考えており、その部分に関しては非常に好みの内容になっていると思います。ただ、本作が傑作として称されるのはそれをただ描いたというだけではないのです。その点を示す根拠として、日本語訳でも分かるように「印象的なフレーズ」というものが非常に多いという特徴があります。
例えば、そもそも書き出しの一文が、「きょう、ママンが死んだ。」という強烈な短文によって構成されており、他にも殺人の動機として「太陽がまぶしかったから。」と語るなど、普通に考えれば「おいおい…」と言いたくなるような印象的な表現が用いられています。しかし、これらのフレーズに象徴されているようなムルソーの「常識外れぶり」は、あくまで我々がそれを見た上での感想であることに留意しなければなりません。
つまり、ムルソーという人間にとって。
・母の死に何の感慨もなく遊びふけること
・太陽がまぶしかったから人を殺すこと
・死刑を目前にしても飄々としていること
は、どれもが彼にとっては「当たり前」のことであり、それを否定する我々こそが「異邦人」に他ならないのです。では、どうして我々の価値観が受け入れられてムルソーの価値観は受け入れられないのか。端的に答えてしまえば、それは我々が「多数派」であるからに他なりません。
母が死ねば喪に服し、人を殺すには極めてひっ迫した理由を必要とし、死刑が近づけば泣き叫ぶ。これが我々にとっての「常識」であり、言い換えれば「宗教」そのものなのです。
カミュはそうした既存の価値観に疑問を投げかけているのですね。■
是非、読んでみてください。
読方解説https://koten–ibuki-com.cdn.ampproject.org/v/s/koten-ibuki.com/stranger/?amp_js_v=a3&_gsa=1&=1&usqp=mq331AQFKAGwASA%3D