『躁鬱大学』坂口恭平
”養老孟司”「人生の参考書」
書評を書くと、いつも思う。こういう仕事を野暮というに違いない。本を読んでもらえば済むだけのことではないか。読めば誰にでもわかるのだから、余計な感想や注釈などはいらない。
本書は躁鬱病の心理のあるべき姿を描いた作品である。小学生の頃から躁鬱人として生きてきた坂口恭平の上手に生きて行くための解決策が具体的かつ徹底的に示されている。
本書はまず第一に「躁鬱病が治らないのは体質だから」から始まる。体質という表現は、つまり「生まれつきそうなんだから、仕方がないだろう」という自己肯定、言い替えれば開き直りである。だから作者は世の中には躁鬱人と非躁鬱人がいるというところから語り始める。現状を躁鬱人が非躁鬱人の社会に少数派として混ざっているという状況だと解釈する。そこをしっかり把握すれば、次の問題は躁鬱人とはどういう存在かの理解である。
そこで坂口恭平は躁鬱人を自分で代表してしまう。それ以外に方法がないからである。躁鬱人としての自分を徹底的に理解すれば、次は周囲との関係になる。坂口恭平は長いこと自分の電話番号を公開して、「死にたくなったら、この番号にかけろ」を実践してきた。その結論として、人生の悩みとは「他人が自分をどう思うか」に尽きるという。躁鬱人は「心が柔らかい」から、合わせることはできる。無理に自分を周囲に合わせれば、いずれ破綻する。それを避けるには、自分を徹底的に理解するしかない。
周囲に合わせないで上手にやっていくには、どういう状況を避ければいいか。「居心地が悪いと感じたら、すぐに立ち去る」「資質に合わない努力を避ける」といった具合である。非躁鬱人がこれをやると、具合の悪いことが起きそうな気がするであろう。しかし躁鬱人の場合は、まさにそうするより「仕方がない」のである。
私にも躁鬱人の友人がいる。頼まれて医者を紹介したが、それよりこの本を紹介して本人に読んでもらおうと思う。効くか、効かないか、読ませてみないとわからない。今から結果が楽しみである。
私は躁鬱人ではないが、坂口恭平の自由さ、明るさには常に感服する。付き合うのも楽である。当たり前で、「居心地が悪い」状況ではすぐに立ち去るのだから、私と付き合っている時は、居心地が悪くないはずであって、気楽な付き合いができる。自分にとって、「居心地がいい」状態がどういうものかを把握することは、非躁鬱人にとっても重要なことである。その状態とは明らかに生物学的なものであって、要するに身体の調子である。その状態からしばらくズレたままでいることを、現在ではストレスというのであろう。ただ問題はそうした自分にとって適切な生物学的状態を現代人の多くが把握できなくなっているということである。坂口はその状態に関して参考になるのは、肺と心臓だという。呼吸と脈拍はある程度自分で調節が可能だからである。
本書が躁鬱大学と名付けられているのは、既述の作品より高度の内容を扱っているという意味かもしれない。随所に参考として引かれるのは、神田橋條治の『神田橋語録』である。これはネットで読めるから、関心のある人はこれを参考にされればよい。
読了して、私はすっきりした気分になった。非躁鬱人にとっても人生の良い参考書になると感じる。私自身は近年ネコのマルを参考にして生きてきた。そのマルは身体の具合が悪くて、この世の居心地が悪くなり、どことも知れず消えたらしい。ネコもまた居心地の悪い状況から、ただちに立ち去るのである。