『i 新聞記者ドキュメンタリー』《公開中》
第32回国際映画祭日本映画スプラッシュ部門作品賞
望月衣塑子(いそこ)記者はノンフィクション『新聞記者』を刊行。それが河村光庸プロデューサーの目にとまり、昨日ご紹介した、藤井道人監督の映画「新聞記者」が公開されました。
今度は望月記者を追ったドキュメンタリー「i−新聞記者ドキュメント−」が公開されています。
河村光庸プロデューサーにはもともと「フィクションとドキュメンタリー両方を作る構想があった」と森監督は打ち明ける。「当初はフィクション版『新聞記者』を撮るつもりだったけれど、諸事情あって降板した。思い入れがあったので、ドキュメンタリーを撮ることにしました」
撮影は昨年12月から約10カ月間。映像には、各地で現場の声を拾い、記者会見で伝えようとする彼女の姿が捉えられている。撮影の前後で、望月記者の印象はまったく変わらなかった。
「彼女を突き動かしているのは、『声なき人の声を伝えたい』という強い思いです。裏表はないけれど、決して完璧な記者ではない。でも、ほぼ孤立しながらも、メンタルが強い。
望月衣塑子記者の名前を、あなたはいつ知っただろうか。官房長官の記者会見で質問を重ねる女性記者。同じ質問を何度もするなと官邸スタッフに咎められたとき、「納得できる答えをいただいていないので繰り返しています」と彼女は即答した。とても当たり前のこと。でもその当り前の言葉が、ずっと僕の頭から離れない。
この国のメディアはおかしい。ジャーナリズムが機能していない。そんな言葉を日常的に見聞きするようになってから、もう何年が過ぎただろう。僕のこれまでの人生は、常にメディアと共にあった。そのうえで断言する。
あなたが右だろうが左だろうが関係ない。保守とリベラルも分けるつもりはない。メディアとジャーナリズムは、誰にとっても大切な存在であるはずだ。だから撮る。撮りながら考える。望月記者はなぜこれほどに目立つのか。周囲と違うのか。言葉が残るのか。特異点になってしまうのか。撮りながら悩む。考える。だから観ながらあなたにも考えてほしい。悩んでほしい。きっと最後には、あるべきメディアとジャーナリズムの姿が見えてくるはずだ。
──監督:森達也
蔓延するフェイクニュースやメディアの自主規制。民主主義を踏みにじる様な官邸の横暴、忖度に走る官僚たち、そしてそれを平然と見過ごす一部を除く報道メディア。そんな中、既存メディアからは異端視されながらもさまざまな圧力にも屈せず、官邸記者会見で鋭い質問を投げかける東京新聞社会部記者・望月衣塑子。果たして彼女は特別なのか?そんな彼女を追うことで映し出される、現代日本やメディアが抱える問題点の数々。この国の民主主義は本当に形だけでいいのか、メディアはどう立ち向かうべきか。森監督の真骨頂ともいえる新たな手法で、日本社会が抱える同調圧力や忖度の正体を暴きだす。菅官房長官や前川喜平、籠池夫妻など、ここ数年でよくメディアに登場した渦中の人間が続々と登場し、これまでの報道では観られなかった素顔をも映し出す。報道では決して映し出されない、現代日本の真の姿。既存の社会派ドキュメンタリーとは一線を画する、新たな社会意識をもった前代未聞のドキュメンタリーが誕生した。
予告映像→
https://youtu.be/_5VrLAZYqhc記事画像引用
https://i-shimbunkisha.jp/sp/「i-新聞記者ドキュメント-」が問うこと
河村光庸 / 映画プロデューサー
10月14日、私は映画「新聞記者」のプロモーションの為、藤井道人監督と共に韓国に赴いた。到着日の夜に行われた一般試写会は熱狂的に受け止められ、SNSは絶賛の嵐、翌朝の記者会見には100人を超す報道陣が集まった。
この作品に対する韓国での高い注目度を実感し、「映画」が日韓関係の悪化を乗り越えることになるのでは、と期待が膨らんだ。10月17日、韓国全土153スクリーンで公開された。しかし、興行成績はふるわなかった。政治的対立が「文化」にここまで影響を与えていたのだ。
10月18日、私のプロデュース作品、映画「宮本から君へ」に対して、日本芸術文化振興会が、出演者ピエール瀧が麻薬取締法違反の有罪判決を受けたことは「公益性の観点から不適当」であるとして助成金を不交付したことを、朝日新聞はじめ、複数のメディアが報じた。
既に不交付通知書を受けた時点で、私は「公益性の有無」という曖昧かつ不明確な不交付理由に納得がいかず、その根拠と経緯の詳細を広く公にすることを要請した。しかし、未だそれがなされていない。
また、驚くべきは、不交付理由となった助成金交付要綱第8条に、「公益性の観点から適当かどうか」の一文が付け加えられたのは9月27日である。何とこちらにその理由が記された不交付通知書が届いた7月10日その時点では、その一文は存在していなかったのだ。
「表現の自由」への違憲行為、政治の文化芸術への介入になりかねない由々しき事態だ。
2019年10月に以上の出来事が立て続けに私を直撃した。
今、メディアはかつて経験したことのない最大の危機に瀕している。
社会全体に暗雲のように立ち込める「同調圧力」。それに呼応するように機能不全に陥る「権力の監視役」たるメディアを官邸権力は抱え込み、巧妙に世論を騙し、封じ込め、一極独裁支配を暴走させてきた。
本作「i-新聞記者ドキュメント-」はそのメディアの真っ只中にいながら、官邸に立ち向かう望月衣塑子の闘う姿を追った。結果として官邸の前に立ち塞がり、「国民の知る権利」を自ら妨げている官邸記者会の有り様が映し出されることとなった。
社会や人間の暗部に独特の方法で切り込む映像作家、森達也の腕の見せどころだ。
10月、韓国で公開された映画「新聞記者」が不振であったことは、文化に対する国民感情は政権の政策とは別のものであるという私の希望的観測を打ちのめした。
「日韓対立」を増長させ、嫌韓ムードあるいは反日ムードをあおったのはメディアであろう。その影響力は大きく、その責任は極めて重いと言わざるを得ない。
この映画は言論の自由、報道の自由が平気で踏みにじられている現実を描いているが、10月18日に報道された芸文振の助成金不交付の件は、「憲法が保障する表現の自由」を損なったという異議申し立てで済まされる問題ではなさそうだ。
官邸の一極支配で引き起こされた同調圧力、忖度によって官公庁全体が「国民のため」という行政の本来の役割を見失い、本件が違憲か否かの判断さえもちえない。官僚が役割に無自覚で、責任を取らない、いや、誰も取れないという責任の有り様が宙に浮いた危険な事態に陥っている。
私たちは空洞化した行政という実態のない幻影を相手にしているのかもしれない。
しかし果たして官邸、官僚、メディアだけが醜悪なのか。そうではないだろうと森達也は私たち一人ひとりにも突きつける。
i=「一人称、私」は集団にのみ込まれずに生きているのか。声を発しているのか。
この映画はそのことを問うているのだ。